私たち人間は、どうしても「ないものねだり」の傾向が強い。今あるもの、
与えられた環境や状況、アイテム等々・・そういうものに感謝するよりも
ないものを欲しがる。もっと言えば他人の持ち物が気になって仕方ないと
いってもよいだろう。とにかく人間は「ないものねだり」な生き物である。
人生を説くような本には、「今与えられているものに感謝しなさい」と書いて
あるが、もちろんこれは当然として、私の場合、「ないものねだり」をもっと
追求せよ、という考えを持っている。具体的に言うと単に欲しい、欲しいと
口で出すだけではなく、実際に手に入れること(行動に起こすこと)まで徹底
すべきと思うわけである。
あれも欲しい、これも欲しいの欲望というのはキリがない。頭で描くことなら
誰でもできる。しかしそれをカタチとして得る人は少ない。大半の人々が頭で
欲しいものを描きながら、やっぱり無理だと諦めてしまう。もしくは、描きつつも
行動に迷いが生じて躊躇する。そして夢は夢で終わってしまう。ちなみに夢に
人偏を付けると儚(はかな)いと書く。人間が夢を実現させるというのは
それ自体、一瞬のことであり、いずれ形は変わる。だから儚(はかな)いと言う。
しかし夢が次から次へと湧いてこれば人生に飽きが来ない。常に気持ちは
フレッシュで、生命の息吹が力強く感じることだろう。
「ないものねだり」は大変結構なことである。今与えられているものに感謝
するのは当たり前だけども、そこに満足(いわゆる現状維持)するだけでは
不足であり、実にもったいない話である。世の中に不変というものはないの
だから常に前へ前へと進んでいかなければならない。世の中に現状維持という
言葉は存在するけれども、その実は幻(まぼろし)なのである。
15歳から20歳までの間、私は霊能力者のような力に目覚め、娑婆の名とは
別に幻聖(げんせい)という法名を持っていたことがある。この名を授けられた
とき、私の魂に湧いた言葉はとても奥深いものであった。
魂曰く、「世の中に変わらぬものは何もなし。すべて変わる、日々刻々と変わる。
それが世の中というもの。決して閉じることのできない真実である。」
幻聖(げんせい)という名は、「世の中に変わらぬものは何もなし」の意味が
あり、この二文字の漢字を代えると現世(げんせい)とも表現できてしまう。
霊能力者といっても私の場合、見えないあの世を中心にした話はあまり重要視
していなかった。あの世というのは死んでみなきゃわからないもので、それより
この世でどう生きるか?を説くほうが万倍も大事である。どう生きるか?という
テーマには先ほどの「ないものねだり」が絶対に外せない。生きるというのは
単にご飯を食べて、眠って、また起きての繰り返しだけを認めたものではなく、
実はその奥底に「何のために生きているのか?」の課題が隠されている。
「何のために?」ここが重要であるし、永遠のテーマになるだろう。そしてこれは
積極的、前向き思考にならないと追えないテーマでもある。つまり、
「ないものねだり」は単なるワガママではなく、人生を問う第一歩とも言えるのだ。
世の中は変わる。変わらないものなど何もない。我々人間を含め地球上の生物たちは
「変わる」=「寿命」の基本式を離れることができない。命は限りあるもの。
限りある命を用いて人生を問うていかなければならない。そしてそれは次代へ継承
されていくものである。
先日、ある読者の方にご意見を頂戴した。
「遠藤さんのコラムは読んでいて気持ち良いが、内容が壮大すぎるときがある。
壮大なのは結構だけども、普段の生活の中だとどうしてもいまいちピンと来ない。」
ピンと来ない、のくだりについては私がとやかく言う問題ではないのであえて
コメントしていない。少しだけ言わせてもらえば、ピンと来る、来ないは本人の
感性の問題。感性が鋭く、常にアンテナを張り巡らせているような人はどんな風も
色も見逃さない。すべて「学び」として吸収してしまうだろう。そして私の書く
内容が壮大すぎるという点だが、正直これは最高の褒め言葉だと思っている。
人生に壮大さは当然である。壮大さを欠いた人生論などあり得ない。日常生活は
地味でありふれたもの、なんて考えるほうが問題である。すべて地球上で起きて
いること、宇宙空間の中で起きていること、小さく落ち着く必要などない。視野は
広く、大きなところから見るのが一番である。人生はちっぽけなところから問うては
ならない。先の先まで考えて問うべきだと私は思う。
「ないものねだり」から、かなり話が発展してしまった。
本日もご愛読頂き、ありがとうございます。
感謝合掌。
遠藤 潤
与えられた環境や状況、アイテム等々・・そういうものに感謝するよりも
ないものを欲しがる。もっと言えば他人の持ち物が気になって仕方ないと
いってもよいだろう。とにかく人間は「ないものねだり」な生き物である。
人生を説くような本には、「今与えられているものに感謝しなさい」と書いて
あるが、もちろんこれは当然として、私の場合、「ないものねだり」をもっと
追求せよ、という考えを持っている。具体的に言うと単に欲しい、欲しいと
口で出すだけではなく、実際に手に入れること(行動に起こすこと)まで徹底
すべきと思うわけである。
あれも欲しい、これも欲しいの欲望というのはキリがない。頭で描くことなら
誰でもできる。しかしそれをカタチとして得る人は少ない。大半の人々が頭で
欲しいものを描きながら、やっぱり無理だと諦めてしまう。もしくは、描きつつも
行動に迷いが生じて躊躇する。そして夢は夢で終わってしまう。ちなみに夢に
人偏を付けると儚(はかな)いと書く。人間が夢を実現させるというのは
それ自体、一瞬のことであり、いずれ形は変わる。だから儚(はかな)いと言う。
しかし夢が次から次へと湧いてこれば人生に飽きが来ない。常に気持ちは
フレッシュで、生命の息吹が力強く感じることだろう。
「ないものねだり」は大変結構なことである。今与えられているものに感謝
するのは当たり前だけども、そこに満足(いわゆる現状維持)するだけでは
不足であり、実にもったいない話である。世の中に不変というものはないの
だから常に前へ前へと進んでいかなければならない。世の中に現状維持という
言葉は存在するけれども、その実は幻(まぼろし)なのである。
15歳から20歳までの間、私は霊能力者のような力に目覚め、娑婆の名とは
別に幻聖(げんせい)という法名を持っていたことがある。この名を授けられた
とき、私の魂に湧いた言葉はとても奥深いものであった。
魂曰く、「世の中に変わらぬものは何もなし。すべて変わる、日々刻々と変わる。
それが世の中というもの。決して閉じることのできない真実である。」
幻聖(げんせい)という名は、「世の中に変わらぬものは何もなし」の意味が
あり、この二文字の漢字を代えると現世(げんせい)とも表現できてしまう。
霊能力者といっても私の場合、見えないあの世を中心にした話はあまり重要視
していなかった。あの世というのは死んでみなきゃわからないもので、それより
この世でどう生きるか?を説くほうが万倍も大事である。どう生きるか?という
テーマには先ほどの「ないものねだり」が絶対に外せない。生きるというのは
単にご飯を食べて、眠って、また起きての繰り返しだけを認めたものではなく、
実はその奥底に「何のために生きているのか?」の課題が隠されている。
「何のために?」ここが重要であるし、永遠のテーマになるだろう。そしてこれは
積極的、前向き思考にならないと追えないテーマでもある。つまり、
「ないものねだり」は単なるワガママではなく、人生を問う第一歩とも言えるのだ。
世の中は変わる。変わらないものなど何もない。我々人間を含め地球上の生物たちは
「変わる」=「寿命」の基本式を離れることができない。命は限りあるもの。
限りある命を用いて人生を問うていかなければならない。そしてそれは次代へ継承
されていくものである。
先日、ある読者の方にご意見を頂戴した。
「遠藤さんのコラムは読んでいて気持ち良いが、内容が壮大すぎるときがある。
壮大なのは結構だけども、普段の生活の中だとどうしてもいまいちピンと来ない。」
ピンと来ない、のくだりについては私がとやかく言う問題ではないのであえて
コメントしていない。少しだけ言わせてもらえば、ピンと来る、来ないは本人の
感性の問題。感性が鋭く、常にアンテナを張り巡らせているような人はどんな風も
色も見逃さない。すべて「学び」として吸収してしまうだろう。そして私の書く
内容が壮大すぎるという点だが、正直これは最高の褒め言葉だと思っている。
人生に壮大さは当然である。壮大さを欠いた人生論などあり得ない。日常生活は
地味でありふれたもの、なんて考えるほうが問題である。すべて地球上で起きて
いること、宇宙空間の中で起きていること、小さく落ち着く必要などない。視野は
広く、大きなところから見るのが一番である。人生はちっぽけなところから問うては
ならない。先の先まで考えて問うべきだと私は思う。
「ないものねだり」から、かなり話が発展してしまった。
本日もご愛読頂き、ありがとうございます。
感謝合掌。
遠藤 潤