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   <title>名古屋　社長塾</title>
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   <title>天から与えられた賜（たまもの）</title>
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   <published>2010-07-28T07:19:28Z</published>
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   <summary>「天与」（てんよ）という文字がある。これは読んで字の如く、天が与えたもの。 天か...</summary>
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      <![CDATA[「天与」（てんよ）という文字がある。これは読んで字の如く、天が与えたもの。<br />
天からの賜（たまもの）の意を表す。<br />
<br />
私は常々、この「天与」について考える。多くの人々がこの世に生を授かりながら<br />
自分の与えられた御役（おやく）に気づくことは、案外少ないのである。それは<br />
どうしてなのか？この答えは明瞭。要は「自ら天与を導かないから」である。<br />
<br />
自分は一体なんのためにこの世に生まれてきたのか？この問いを天に向かって<br />
投げかけることができるのは、唯一我々人間だけである。他の動物は与えられた命に<br />
ただ真っ直ぐ忠実であり、「思考と選択の自由」までは、とても気づかないだろう。<br />
しかし人間だけは誰にも等しく「思考と選択の自由」を与えられてこの世に在る。<br />
<br />
もちろん取り巻く環境や時代の変化というのもあるだろう。なんでもかんでも自由を<br />
謳歌できるものではないということも十分わかる。だが、時代の先駆者はいつも<br />
人間であったし、この地球を「思うままに」扱えたのも人間である。<br />
<br />
そういえばどこかの動物園で「人間」というプレートが貼ってある檻があった。<br />
しかもその檻の中は誰でも入れる仕組みになっていて、説明書にはこう書かれている。<br />
<br />
「人間＝それは地球上で一番危険な動物」<br />
<br />
まさしくその通り！！<br />
人間自身が「自分たちの存在が一番脅威になること」を十分理解しているのだ。<br />
にもかかわらず脅威から遠ざかることはない。常に脅威とは背中合わせであり、<br />
地球の命運さえもその手に握りしめていることになる。<br />
<br />
再び「天与」に話を戻したい。<br />
天から与えられた賜（たまもの）なんて言うと、どうしても話が大きくなりがちで<br />
あるが、このことをよく理解するとそうでもないことに気づく。要は気づくか、<br />
気づかないか。ただそれだけのことなのだ。しかも御役（おやく）を果たす場所は<br />
自分自身で見つけなければならない。誰かに与えられるものではない。既に天が<br />
与えているのだから、あとは自分次第である。<br />
<br />
これは私の独断と偏見かもしれないが、人間というのは、「肉体」と「精神」それと<br />
「魂」の三位一体で存在するものだと信じている。「肉体」と「精神」というのは<br />
いつでも自分で確認することができるものだから、否定なんぞ必要ない。むしろ<br />
それが在ることが当たり前である。しかし「魂」だけは別の次元の話となろう。<br />
私に言わせれば、こればかりは「己自身の存在意義を問うための根幹」であり、<br />
先に書いた「天与」に通じるものだと確信している。<br />
<br />
つまり我々人間にとって「魂」は、命の根源であり、原点といっても過言ではない。<br />
それなのに気づけないのは非常に勿体ないことであるし、もっと言えばせっかく<br />
与えられた命も無駄になってしまう・・<br />
<br />
人生において、一体何が大切か？<br />
それは各々の価値観に委ねるところであるが、原理原則に沿っていえば全てが<br />
大切なのである。そして自分の「魂」に問うてみて、そこで感じたことは何の<br />
疑いも持たず、周りに翻弄されるでもなく、まずやってみることが肝要である。<br />
<br />
明日も引き続き「天与」について存分に語らせて頂きたい。<br />
<br />
ありがとうございます。<br />
<br />
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝<br />
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   <title>散り際、去り際こそ要（かなめ）也</title>
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   <published>2010-07-26T11:14:29Z</published>
   <updated>2010-07-26T11:15:01Z</updated>
   
   <summary>この頃とくに思うことは、 「散り際、去り際こそ要（かなめ）」という言葉である。 ...</summary>
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      <![CDATA[この頃とくに思うことは、<br />
「散り際、去り際こそ要（かなめ）」という言葉である。<br />
<br />
命が生まれるときよりも、死に逝くときが要（かなめ）。<br />
愛が生まれるときよりも、愛が消えるときが要（かなめ）。<br />
出会いよりも、別れるときが要（かなめ）。<br />
<br />
人間は「執着」というものを本能的に持っている。せっかく手に入れたものを<br />
手離したくないという気持ち。手離すのを惜しいと思う気持ち。それを誰もが<br />
少なからず持っているのである。<br />
<br />
誰かがこう教えてくれました。<br />
たとえば恋愛や結婚など、男女の関係で表現するとすれば・・<br />
<br />
本当にいい男というのは、付き合っているときではなく、別れ際で決まると。<br />
別れ際に人間性が垣間見えるから、そこがその男の本性なのだと。そう教えて<br />
もらいました。別れ際、みっともなく責任から逃れ、なんだかんだと理屈を<br />
こね回し、疲労と困惑ばかりを押しつけてくるようではダメだとも仰ってました。<br />
なるほどよくわかる話だなぁ、と思わず納得です。<br />
（女性にも同じことがいえるでしょうね。）<br />
<br />
仕事も同じ。<br />
一緒に夢を果たそうとパートナーを組むのは、ある意味容易いこと。早い話が<br />
意気投合してしまえばいいだけのことですから。しかしこれも別れ際は難しい。<br />
仕事も、いいときばかりではない。ダメなときもある。苦しいことが連続して<br />
起きることもあるわけです。そんなとき、ふと「もう、やめようか・・」という<br />
気持ちになる。それは正直な気持ちだから止めようもないでしょう、<br />
<br />
もし「やめる」にしても、その去り際、散り際は軽く扱ってはいけない。物事は<br />
「はじめる」よりも「やめる」のほうがインパクトは絶大である。理想をいえば<br />
誰も傷つけずに、迷惑かけることなく美しく幕を下ろすことに尽きるだろう。<br />
みっともないのは最後の最後まで自分の私利私欲が優先されることだ。これは<br />
決してあってはならないことだし、誰も認めてくれるものではない。<br />
<br />
こういうときに正々堂々と姿勢を貫けるか、否か。その散り際、去り際に<br />
真の人間性が出ると私は思う。人生は一度きりのものである。どうせなら<br />
つまらぬ遠慮などしていないで、正々堂々と生きたい。いろんなしがらみの<br />
中に自分を置いていると、時々そのしがらみの渦に巻き込まれそうになる。<br />
そして自分の声ではない偽物の声を口に出してしまったり、不本意な妥協を<br />
してみたり、まったく情けないことばかりを繰り返してしまう。<br />
<br />
正々堂々と生きること。<br />
当たり前のことだが、常に「去り際、散り際」を意識していないと、つい<br />
忘れがちになる心得である。<br />
<br />
ありがとうございます。<br />
<br />
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝<br />
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   <title>『実学』こそ我が経営のバイブル</title>
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   <published>2010-07-24T03:43:12Z</published>
   <updated>2010-07-24T03:43:43Z</updated>
   
   <summary>私は２１歳で起業し、２２歳で株式会社を設立。そして２３歳で会社を潰し、 ２５歳の...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/">
      <![CDATA[私は２１歳で起業し、２２歳で株式会社を設立。そして２３歳で会社を潰し、<br />
２５歳のときに再び起業の道を歩き、どうにか現在までに至っております。<br />
２１歳、２２歳のときなんて「経営」のことを、まともに考えたことはありません。<br />
会社とはお金儲けの場であり、そこのトップたる社長が一番偉くて威張って<br />
当たり前、という幼稚な考えしかなかったのです。<br />
<br />
ところが縁あって再び起業の道を歩き出し、しばらくはパートナーと二人三脚で<br />
何とかやってこれたものを１人、２人と社員さんが増えるようになり、これは<br />
個人事業の感覚ではダメだな・・と思うようになりました。とはいえ具体的に<br />
どうすればいいのか、というところまでは考えつくわけもなく、ある意味、<br />
途方に暮れていたというような感じでした。<br />
<br />
とある日、書店のビジネス書コーナーで一冊の本を見つけました。タイトルは、<br />
『稲盛和夫の実学　経営と会計』と刻まれています。著者は京セラ創業者の<br />
稲盛和夫氏。ものすごく有名な経営者ですし、盛和塾の塾長として全国の経営者<br />
たちの育成指導にも力を入れておられる非常にアグレッシブな方でもあります。<br />
<br />
私は最初、気軽な気持ちで本を手に取りました。ページをめくると、いわゆる正論が<br />
次から次へと書かれています。そりゃそうだ。仰るとおり。それにしても何故、<br />
会計の素人だった著者が会計のプロ相手にそこまで突っ込めるんだろうか？等々・・<br />
勝手なことを思いながらページをめくっていきました。ところが、突然でしょうか、<br />
急に胸がギュッと締め付けられる感覚に陥ったのです。そして「怖い・・」という<br />
気持ちが全身を貫きました。つまりそれは読めば読むほど怖い本だったのです。<br />
<br />
真に迫るというのでしょうか、そこに書かれている数珠の言葉は経営の真実であり、<br />
正々堂々と行われた記録であり、著者の全人生を凝縮したものであったのです。<br />
この怖さは今でもハッキリと鮮明に憶えております。『実学』は現在の私にとっても<br />
聖書（バイブル）であり、縁深い人物には贈り物として手渡すこともあります。<br />
<br />
ところで、『実学』の中で最も魂を貫いたのは、この言葉でした。<br />
<br />
「会社は、決して経営者の私的な利益を追求する道具ではない。<br />
会社の使命は、そこに働く従業員一人一人に物心両面の幸福をもたらすと同時に、<br />
人類、社会の発展に貢献することである。当然、経営者は率先垂範して、<br />
この会社経営の目的を達成するために最大限の努力をしなくてはならない。<br />
透明な経営を実践すれば、この使命達成のためにトップが先頭に立って<br />
奮闘していることが、社員の目からも一目瞭然になってくる。」<br />
<br />
中略・・・<br />
<br />
「社員が会社全体の状況やめざしている方向と目標、また遭遇している困難な<br />
状況や経営上の課題について知らされていることは、社内のモラルを高めるためにも、<br />
また社員のベクトル（進むべき方向）を合わせていくためにも不可欠なことである。<br />
社員の力が集積されたものが会社の力なのであり、社員の力が結集できなければ、<br />
目標を達成することも、困難を乗り切っていくこともできない。そのためには、<br />
トップに対してだけではなく社員に対しても経営を限りなく透明にすることが<br />
最低限の条件となる。」<br />
<br />
如何だろうか。<br />
経営者としては、この言葉を無視できないし、言葉の深さ、真実に魂がふるえるのは<br />
当然のことだろうと思います。私もずっと長い間、「実学」の真実に触れながら、<br />
道を求めるかの如く、追い続けてきた毎日を過ごしました。しかしながら私には<br />
勇気がなかったのか、意気地がないのか、しばらく眠ったまま理解に苦しみました。<br />
<br />
経営者よ、道は我が足で踏まねば歩くこともできない。思い悩む時間を、まず<br />
歩き出す時間に代えてみよう。一歩ずつ着実な「歩」を刻んでいこう。その姿勢、<br />
その魂が本物であれば、必ず結果は出る。そして下心なんぞ抱かずに、ただ真っ直ぐ<br />
「まこと」の心１つでやり遂げるのだ。<br />
<br />
一念は、困難さえも打ち砕く。二も三も迷うことはない。ただ一念でよい。<br />
一念こそ、人生の道そのものである。私はそう信じてやまない。<br />
<br />
ありがとうございます。<br />
<br />
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝
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   <title>生きるとは、ある意味「夢中」になること</title>
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   <published>2010-07-21T09:02:30Z</published>
   <updated>2010-07-21T09:03:00Z</updated>
   
   <summary>「夢中になる」という言葉をよく耳にしますが、今の私はまさにそれ。 四六時中、頭の...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/">
      <![CDATA[「夢中になる」という言葉をよく耳にしますが、今の私はまさにそれ。<br />
四六時中、頭の中は会社のことばかりを考えています。朝起きて会社に<br />
行って仕事して、その帰り道も、家事をするときも、夜寝てるときも<br />
会社のことが頭から離れられません。まるで会社に恋しているかのよう・・<br />
<br />
もちろん夢中ということだけあって、夢の中にも会社は登場します。<br />
社員と一緒に働く姿や、取引先さんと話している姿、数字のことや<br />
サービスのこと、ありとあらゆることがリアルに夢の中に現れます。<br />
一番強烈なのは自分が立てた目標に対する達成意欲。これが結構キツい。<br />
<br />
自分には嘘つけませんので目標が未達成だったり、いくらか中途半端だと<br />
非常に悔しいわけです。<br />
そういえば営業マン現役の頃もそうでした。自分の立てた目標数値を月の<br />
一週目から二週目あたりで７０％達成してないと、焦りと不安ばかりが<br />
胸を締め付けたものです。夜も眠れない、なんて当たり前で、真っ暗闇の<br />
天井をボーッと眺めながら、明日はどう動くべきか、こうすべきか、なんて<br />
考えてばかりいました。<br />
<br />
こんな私のことを経営者のある先輩は、<br />
<br />
「そういうのを取り越し苦労というんだ。やめなよ。命が縮まるぞ。」<br />
<br />
なんて脅して（？）くれたものです。命が縮まったか、否かは今でもよく<br />
わかりませんが、少なくとも「生きてる！」という実感はありましたね。<br />
毎日が非常に忙しくて余裕もないのですが、なぜか本人の心境としては<br />
生命を実感しているというのか、それを楽しんでいる感じだったのです。<br />
<br />
こんなことを書くとヘンだと思われるかもしれませんが、今の私には<br />
ストレスというのがありません。さすがに体力的な疲労は否めませんが、<br />
それでも心は燃えているお陰なのか、とても生き生きしているのです。<br />
もちろん不安や心配もないわけじゃありません。経営者としての課題は<br />
以前より重たくなったし、簡単に超えられるほど甘いものでもない。けれど<br />
今さらクヨクヨ、ジメジメ悩んだって仕方ない、という気持ちのほうが大きい。<br />
<br />
クヨクヨするくらいなら前を向いて、一歩でも進め！と思うし、ジメジメして<br />
暗くなるくらいなら徹底的に明るく元気に生きてやろう！と思う。<br />
<br />
意味あって天から与えられた命です。この命を生かすも殺すもすべて<br />
自分次第だとしたら、その自分を否定するのではなく徹底的に信じて<br />
生き抜く覚悟があったっていい。一生懸命「生きる」ということは、<br />
いつ「お迎え」があっても悔いはない、ということに繋がるのです。<br />
私はよく一日一秒という言葉をブログでも使ってきました。一秒にも<br />
この貴重な命を使っているということになる。つまり一生の一部分に<br />
当たるわけです。<br />
<br />
この一生の一部分の積み重ねが人生の結果となる。つまり一秒とて無駄な<br />
時間など存在しないということになります。<br />
<br />
最後に、<br />
私の尊敬する西郷南州翁の遺訓から「敬天愛人」をご紹介させて頂きます。<br />
<br />
「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、<br />
天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、<br />
我を愛する心を以て人を愛する也。」<br />
<br />
ありがとうございます。<br />
<br />
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝<br />
]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>「自分の考え」をしっかり確立する</title>
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   <published>2010-07-20T08:37:16Z</published>
   <updated>2010-07-20T08:37:45Z</updated>
   
   <summary> 「自分の考え」 雑踏の中にあっても、自分は自分。どんな場合でも見失ってはいけな...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/">
      <![CDATA[<br />
「自分の考え」<br />
<br />
雑踏の中にあっても、自分は自分。どんな場合でも見失ってはいけない。<br />
他人が右に行けば、自分も右に。左に向かえば同じく左に進む。そこに<br />
自分自身の納得があったか、否か。非常に重要な問題であると私は思う。<br />
<br />
私は折に触れてよく「自問自答」という言葉を用いるが、これは私たちの<br />
人生において神様から与えられた唯一の特権だと信じている。自問自答とは<br />
言い換えれば「選択と思考の自由」である。私たちの持つ肉体と精神が<br />
現世の活動において大いに機能するよう、必然的に与えられたもの。<br />
<br />
ここでいう自問とは誰に対して行うものか？<br />
また、自答は誰が出す回答（決断）なのか？<br />
<br />
それはすべて自分自身。もっといえば魂（たましい）と言ってもよい。<br />
世の中にはあらゆる情報と思考と選択肢が広がっている。しかしながら<br />
私たちの人生の時間に対して、そのすべてを選ぶことは不可能だし、<br />
あり得ないことだ。<br />
<br />
人生は有限である。限られた時間の中で使命を果たしていかねばならない。<br />
そしてこの「使命」という言葉。読んで字のごとく「使う命」と書く。<br />
命を削るとも、消費するとも言えるだろう。私たちは毎日毎日、命を費やし<br />
ながら生きていることを忘れてならない。その貴重な時間を、自問自答に<br />
充てないで生きるなどと本当に勿体ない話である。<br />
<br />
あらゆる課題に対して、的確な解決法を考えつくのは至難の業である。<br />
時に失敗して痛手を被ることもあるし、かえって裏目に出てしまうこともあろう。<br />
それでも私たちは挑戦の手を緩めてはならない。恐れに苦しみながらも<br />
決して未来への希望を捨ててはいけないのだ。<br />
<br />
どんな状況下に在ろうとも、その現実から目を背けることなく挑戦する。<br />
他人の思考と選択に１００％従うのではなく、必ず自分自身に従うこと。<br />
「自分の考え」というものをしっかり確立し、それを信じて行動すること。<br />
それが非常に重要なことなのである。<br />
<br />
経営者の仕事の中で一番難しいのは、「決断」だとか「判断」と言われている。<br />
これ次第で会社は成長もするし、傾きもする。実に大きな責任が伴うし、とても<br />
リスキーなことでもある。しかし経営者はそれ（決断・判断）を避けることは<br />
出来ない。なぜならそれが唯一の、求められる仕事だからである。<br />
<br />
日々の中で「自分の考え」というものを常に意識していたい。雑踏に<br />
呑まれて我を見失うことのないよう、しっかり地に足を付けて挑みたい。<br />
もう泣き言を言っている暇などないのだから・・<br />
<br />
ありがとうございます。<br />
<br />
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>　「理念を体現する」ことについて</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/dt/2010/07/post_2107.php" />
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   <published>2010-07-16T01:45:20Z</published>
   <updated>2010-07-16T01:45:49Z</updated>
   
   <summary>「理念を体現する」 理念というのは、額に掲げるだけでは意味がない。また理念とは ...</summary>
   <author>
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   </author>
         <category term="2010年" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/">
      <![CDATA[「理念を体現する」<br />
<br />
理念というのは、額に掲げるだけでは意味がない。また理念とは<br />
単なる理想論ではなく、それは形に表れるもの（姿勢・結果）であって、<br />
必ず現実に確認できるものだ。<br />
<br />
私は自分が経営者になってから、ずっと・・<br />
<br />
「理念とは何か？」<br />
「理念の、何がそんなに重要なのか？」<br />
<br />
そんなことばかりを求めてきた。また、営業の現場にいたときは、<br />
それこそ精神論の塊みたいな人間で、毎日毎朝「営業理念」とか<br />
「営業十訓」みたいなものを腹の底から絞り出すように叫んでました。<br />
それと営業へは殆ど車で出かけてましたので、訪問先に着く直前は<br />
何故かドリカムの「未来予想図２」をかけて、自分も歌ったり・・<br />
<br />
ともかく目標達成のためには自分のやる気（モティべーション）を<br />
高める必要がある、と思い込んいたし、それが普通の日常だったのです。<br />
その結果として「契約」を取ることができれば万事良し！<br />
<br />
正直そこまでしか考えていませんでした。いや正確にはそこまでしか<br />
考えられなかった・・といったほうが本当かもしれません。営業は<br />
目標数値の達成が要（かなめ）です。１円でも達成数値に不足があれば<br />
激しく自分を責めるものだし、まして来月やれば何とかなるなんて<br />
言い訳なんか通用しない。数値は数値。絶対のものだったのです。<br />
<br />
だから数値達成がすべての目的、いわば終着駅みたいなものでした。<br />
私の場合、最初の起業で失敗したツケ（借金）の支払いがあるので<br />
高歩合率目的に営業をやっていた時期もありましたが、やっぱり<br />
営業活動に没頭していると、目標数値が絶対のものであり、そこに<br />
激しい熱意と執念を燃やす。<br />
<br />
そんな「ザ・現場！」みたいな人間が、会社を設立し、経営者として<br />
舵を任されたわけですから、大いに悩みました。今だから言えること<br />
ですが、当時は「経営って一体なんだろう？」のレベルから悩んでいたの<br />
であります。今でも経営の奥深さ、真骨頂たるや何か？と問われても<br />
満足な回答はできないはずです。<br />
<br />
少し前までは先ほども書きましたが、経営には理念が必要と教えられ、<br />
ずっと「理念とは何か？」「理念の何がそんなに重要なのか？」なんて<br />
追い求めつつ悶々と悩んでいたのです。<br />
<br />
理念を求めれば求めるほど、これは精神論だなと思った時期もありました。<br />
自分が営業一本で生きていたときに精神論に助けられた思い出があるので<br />
理念＝精神論という考えに否定はなく、むしろその思いを強くしたものです。<br />
<br />
しかしながら、私はふと気づいたのです。<br />
「理念って本当に精神論で片付けていいのか？」と。<br />
何度も理念を語っても、みんなと唱和しても、文章に書いても、<br />
それは単なる「額に掲げた」だけに過ぎないもので、現実的とは<br />
言えないのではないか？と、そのように思うようになったのです。<br />
そして先月、ハッキリとその答えが出ました。今段階としての私が<br />
気づいた浅はかな答えかもしれませんが、一応出たのです。<br />
<br />
それが「理念を体現する」という、いわば実践の道です。営業の現場でも<br />
精神論で自分のやる気（モティべーション）を高めたりもしましたが、<br />
結果的に契約件数に比例すれば問題はありません。つまり結果を出して<br />
いるから、精神論でも十分であるという決着がついただけのこと。<br />
要は結果なのです。目に見える結果、俗な言い方かもしれませんが、利益が<br />
それに該当します。<br />
<br />
極論過ぎると叱られる覚悟で発言するならば、こういうことです。<br />
<br />
「利益なき理念は、不要なり！」<br />
<br />
一歩間違えると拝金主義的な捉え方をされるかもしれません。いえ、決して<br />
金銭に固執すること「だけ」を言うのではなく、そこに物心両面の幸福が<br />
明確に見えていることが肝要です。私はそこに向かって頑張ります！！<br />
<br />
ありがとうございます。<br />
<br />
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>理念は体現してこそ初めて生きる！</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/dt/2010/07/post_2105.php" />
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   <published>2010-07-14T03:11:01Z</published>
   <updated>2010-07-14T03:11:28Z</updated>
   
   <summary> 「経営者は自ら理念を体現する存在でなければならない。」 私は最近とくに、そう強...</summary>
   <author>
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   </author>
         <category term="2010年" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/">
      <![CDATA[<p>
<br />
「経営者は自ら理念を体現する存在でなければならない。」
</p>
<p>
私は最近とくに、そう強く思うようになりました。今までも組織における<br />
理念の重要性、位置付けにはそれなりの「こだわり」がありましたが、<br />
果たしてそれが本当に妥当なのか、どうかという点において僅かながら<br />
疑問があったのです。
</p>
<p>
理念というと、まあいわゆる「企業理念」「経営理念」といった形で<br />
決められるものが大半ですが、この意味としては、「組織の存在意義」を<br />
問うものであると私は考えております。何故、この組織は存在するのか？<br />
一体何をするために存在しているのか？等という、人の一生で言えば、<br />
「一体何のために生きるのか？」という究極の問いと同等なのであります。
</p>
<p>
その究極の問いをするにあたり、単に言葉だけ綺麗なものを理念として<br />
定めたとしても、それが理解・浸透していく根拠がありません。理念は<br />
言葉を用いて目に見えるよう表現されますが、その一字一句に魂（たましい）が<br />
込められるか、どうかは全く別の問題ではなかろうか。
</p>
<p>
魂（たましい）とは、「感じる」ものであります。ですから逆を言えば<br />
感じないものは魂（たましい）とは言わず、もしくは魂（たましい）など<br />
最初から込められてない、ということになります。そしてこの魂（たましい）は<br />
確かに人間が自らの意志で込めていくものであり、生かしていくものなのです。
</p>
<p>
つまり、<br />
「理念を体現する」ということは、それをそのまま実践するということであり、<br />
その結果を形として出すこと。そうやってハッキリと目に見えるものでなければ<br />
理念などというものは存在しない、ということになるのでございます。
</p>
<p>
感じる。<br />
生きる。
</p>
<p>
それは私たちの「実感」に通じるものであって至極当然のこと。でなければ<br />
理念は、単なる文字であり、言葉だけに過ぎない。実践とは行動である。<br />
実際にやってみるという明確な行動。それを指すのであります。
</p>
<p>
失敗が怖い？<br />
どうなるかわからん？
</p>
<p>
なんてマイナスばかり頭に浮かんでおったら、絶対に身体は動かない。<br />
しかし身体を動かさなければ、何も産まれないし、結果などというものは<br />
初めから無かったもの・・なんてことになってしまう。これじゃ一体なんの<br />
ために理念など掲げたんだ？という疑念が出るし、もっといえば一体なんの<br />
ために会社など興したんだ？と言われても仕方ないだろう。
</p>
<p>
要は、「理念を体現する」ことに必死になることです。たったそれだけ。<br />
それだけのことなんです。道は決まった。ならば一切の迷いも不安も<br />
きれいさっぱり拭い去って、真っ直ぐ前を向いて歩こうではないか。<br />
あとは天に一切合財をお任せするべし。我、体現のみ在るべし。
</p>
<p>
ありがとうございます。
</p>
<p>
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>日曜日に学んだコト</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/dt/2010/07/post_2104.php" />
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   <published>2010-07-11T22:52:16Z</published>
   <updated>2010-07-11T22:52:44Z</updated>
   
   <summary>昨日午後から長男と二人で近所の小学校を訪ねました。参院選の投票に 行くためだった...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="2010年" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/">
      <![CDATA[昨日午後から長男と二人で近所の小学校を訪ねました。参院選の投票に<br />
行くためだったのですが、そこで思わぬ発見をすることになったのです。<br />
自宅から小学校まで徒歩で２、３分の距離。小雨は降っていましたが、この<br />
程度ならと長男にも子ども用の傘を持たせ、二人で仲良く出かけました。<br />
<br />
ついこのあいだ田植えが終わったばかりの、たっぷり水の張った田んぼを<br />
長男につられて覗き込むと、なんとそこにはタニシがいます。それも１つや<br />
２つじゃなくて、本当にあっちこっち数え切れないほどの数です。タニシが<br />
動いたあとに道が出来るらしく、その曲がりくねった形を見ると思わず笑みが<br />
こぼれます。<br />
<br />
大自然というと、どこか遠くの山々や清流、海などを想像しやすいのですが、<br />
こんな身近に自然があることに私は本当に感動してしまいました。月曜から<br />
土曜の毎日は、仕事に没頭する日々ですから、こうして自然に触れる機会と<br />
いうのは滅多にありません。まして私１人だったら、頭の中で「あれもやらんと<br />
いかんし、これもやらんと・・」なんて考えふけるだけで、田んぼの中まで<br />
視線が行かなかったと思う。<br />
<br />
３歳の長男は、すっかり大人になったようで、最近では私の心を優しく<br />
いたわってくれるようになりました。今朝も珍しく早く起きてきて、出社<br />
しようとする私の顔を覗き込み、「ママ、お仕事頑張ってね。たいがくんも<br />
保育園頑張るから。行ってらっしゃい！」と心強く送り出してくれます。<br />
私にとっては初めての子であり、お腹を痛めて産んだ可愛い我が子です。<br />
これは会社も同じで、私が望んで創業した可愛い会社です。どちらも私に<br />
とって得難き宝。全身全霊を懸けて守っていかねばならない存在です。<br />
<br />
日曜の一時の時間が私に教えてくれたことは、改めて「地に足をつけよ」と<br />
いうことを伝えてくれたのだと思います。家庭と仕事を両立させる、なんて<br />
いう理想論を振りかざすのではなくて、今やるべきことを真剣にやる！その<br />
一途が至極肝要というものではないか、と思うのです。もちろん辛いことも、<br />
思うようにいかないことも多々あるでしょうが、それでも決して諦めることなく<br />
前を向いて、すべてを受け入れ「あるがまま」努力すること。そこに尽きると<br />
私は信じたい。<br />
<br />
さて、今日も悔いなく正々堂々と「歩」を刻もう！！<br />
<br />
ありがとうございます。<br />
<br />
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝<br />
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>「時間のゆとり」があれば満足なのか？</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/dt/2010/07/post_2103.php" />
   <id>tag:www.hakuoh.co.jp,2010:/presidentblog//2.2152</id>
   
   <published>2010-07-09T07:06:59Z</published>
   <updated>2010-07-09T07:07:26Z</updated>
   
   <summary>現代社会は「ストレス社会」だの「スピード社会」だのと、いろいろ 言われております...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="2010年" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/">
      <![CDATA[現代社会は「ストレス社会」だの「スピード社会」だのと、いろいろ<br />
言われております。人間が人間らしくあるためには、ある程度の余裕が<br />
なければムズカシイ・・らしい。その「ある程度の余裕」って何？と<br />
思うけど、要は「時間のゆとり」のことなんだろう。<br />
<br />
時間に追われると精神的にも肉体的にも負われてしまって、ついには<br />
疲労に耐えかねてダウンしてしまう・・それが人間というものだ、と<br />
言いたいのかもしれない。しかし私は、そこに「待った！」をかける。<br />
<br />
時間がないから、忙しいから、それだから倒れる・・というのはちょっと<br />
違うような気がするからである。世の中には「超」がつくほど忙しい人は<br />
いくらでもいる。スケジュールもぎっしり詰まっていて、予定から予定へと<br />
早足で駆け抜ける人は、そんなに珍しくない。<br />
<br />
そんな多忙を極める方々が全員足並み揃えてダウンするのか、というと<br />
それはあり得ない。ダウンする人もいるし、そうでない人もいるのだ。<br />
では、その「違い」は何か？もし、問うのであれば、まさにその部分だ。<br />
<br />
昔、現役の営業マンだった頃。私は当時「営業の神様」こと伊藤光雄氏を<br />
私淑しており、彼の伝えるメッセージを自らの教科書としていた。それこそ<br />
何１つ逆らうことなく、疑問も持たず、ただ一途に教えを忠実に守り、営業の<br />
現場で逐一実践していたのである。<br />
<br />
師匠、伊藤光雄氏いわく・・<br />
<br />
「営業マンは常に燃えていなければならない。燃えている営業マンは<br />
風邪もひかないし、腐ったモンを食べても平気。倒れないんです。」<br />
<br />
燃えているか、燃えてないか。<br />
それが徹底的な「違い」であると、師匠は教えて下さる。さらに師匠は、<br />
営業マンの「目標管理」に臨む姿勢についても、容赦ない。<br />
<br />
「執念を持続しろ。目標管理とは己自身との戦いだ！」<br />
<br />
「目標必達の意識を持て。達成なしには明日はない！ 」<br />
<br />
「結果こそがすべて。結果無き努力は言い訳にしかならない。」<br />
<br />
ほとんど精神論の世界だが、営業経験者なら誰でも納得するだろう。<br />
効率の良い営業方法だの、手法だの、戦略・戦術だのと言っても、結局は<br />
己自身の「動き（姿勢）」ですべてが決まってしまう。そういう問答無用の<br />
世界なのだ。営業とは。<br />
<br />
そしてその「動き（姿勢）」が鈍ると、ダラダラ言い訳や愚痴をこぼすように<br />
なり、「こんなはずじゃなかった」などと言って、途中で放り出してしまう。<br />
営業の世界は結果がすべてなので、その現実に耐えきれず去っていく者が多い。<br />
表向きはストレス、疲労、モティべーション の低下だが、実際には自分自身に<br />
負けただけの話である。その自分に負けた人は、いつも身体もだるく、朝も満足に<br />
起きられず、笑顔も消えて、常に不満足の中で生きていかねばならない。<br />
<br />
話を先に戻すと、「時間のゆとり」がないから人はダウンするのではなく、<br />
私思うに、犯人は時間などではなく、本人の「考え方」にある。持つべき<br />
「考え方」次第で、モティべーションはいくらでも上がるし、成長に向けて<br />
素直に歩を進めていくだろう。それこそ時には寝食を忘れて・・ということも<br />
あるし、肉体の酷使で疲れが一時的に溜まることもある。しかし、そうで<br />
あっても、本人の「考え方」がしっかり確立されていれば、肉体などケロリと<br />
復活してしまうものだ。<br />
<br />
要は、自分との闘いに勝てる者だけが、本物の勝者となるのである。<br />
<br />
ありがとうございます。<br />
<br />
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝<br />
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>「即身成仏」からの氣づきと学び</title>
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   <published>2010-07-07T23:31:50Z</published>
   <updated>2010-07-07T23:32:21Z</updated>
   
   <summary> 即身成仏（そくしんじょうぶつ）と言うと、仏教を思い出しますが、私はこの 言葉に...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="2010年" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/">
      <![CDATA[<p>
即身成仏（そくしんじょうぶつ）と言うと、仏教を思い出しますが、私はこの<br />
言葉に世の真理というのでしょうか、何故か奥深い意味を感じてやまないのです。
</p>
<p>
これは、私たち人間がこの肉身のままで究極の悟りを開き、仏になることを<br />
教えているものですが、要は「生きながら仏になる」ということです。
</p>
<p>
私は今朝、通勤のバスの中で、ふとこんなことを思いました。
</p>
<p>
「生きるとは一体なんだろう？私のやるべき御役（おやく）に、ただ真っ直ぐ<br />
向き合うこと、懸命に取り組むことだと私は思うが、はたしてそれで本当に<br />
生きているということになるのだろうか？」
</p>
<p>
まるで禅問答のような、哲学追求のような、そんなことを自問自答しながら<br />
会社に辿り着いた私。自問しながらチラチラ浮かんだのが、この「即身成仏」の<br />
四文字でありました。死んでから気づくのはあまりにも遅すぎる。やはりこの<br />
肉体・精神が現世に在るうちに気づくこと（悟ること）が一番肝要なのでは<br />
ないか、と、こんなことを考えていたわけです。
</p>
<p>
随分前から「生きるとは一体なんだろう？」と自問を繰り返している私ですが、<br />
やはり行き着く自答は、毎回「今、この場この時を懸命に生きること。」に尽きて<br />
しまうのであります。「尽きてしまう」なんて言うと、まるで諦めたように<br />
思いがちですが、考えれば考えるほど、そういうシンプルな答えしか鮮明に浮か<br />
ばないのも事実なので、今はただそれを前向きに捉えることにしています。
</p>
<p>
さて、「即身成仏」ですが、たしかにこれは仏教の言葉です。が、このさい<br />
仏教というカテゴリを飛び出して、すべての視点で改めて見てみると、やはり<br />
この「即身成仏」の意味は非常に深く、尊いものであることがわかります。また、<br />
深くて尊いわりには、私たち人間に対して恐ろしいほど身近で、必然でもあります。
</p>
<p>
私たちは、いつかは必ず死を迎えます。これは誰１人とて避けられない絶対のもの。<br />
ただ私たちに在るのは、それまでの猶予期間。いわば寿命であります。寿命の<br />
短い、長いは人それぞれに課せられたものだから、どうこう言うことはできませんが、<br />
それでも「いつかは」死んでいくのです。
</p>
<p>
私はいつも死を考えるとき、同時に生を考えます。それが「生きるとは一体<br />
なんだろう？」という自問です。以前の私だったら、「死は怖いもの」だという<br />
恐怖心が先に立ってしまい、なるだけ意識しないように努めたものです。これは<br />
別にこの世に未練があるとかではなくて、単純に死んだ後の行き先が心配だったと<br />
いうことだけなのですが、正直、１０代、２０代の若者には辛い自問でありました。
</p>
<p>
今は「死」よりも、むしろ「生」が怖い。この流れていく時間の中で、<br />
「一体何に取り組んだか？」ということを即答できないことのほうが、余程怖いので<br />
あります。だからこそ立派な肩書きを得るとか賞賛を受けるとか、そんなことを<br />
意識するのではなく、単に「生きる」ということを真剣に取り組んだか？ということ<br />
自体に、畏れを感じるし、同時にそれを実践すべきという気持ちが素直に出てきます。
</p>
<p>
生きながら仏になる。この生あるうちに悟りを得ることの難しさ。厳しさ。<br />
しかしながら、その悟りを愚直なほどに求める姿勢の美しさ、尊さ。私はそこに<br />
人間であることの証（あかし）を強く感じられずにはいられない。
</p>
<p>
今日も「ただ今、この場この時を懸命に生きるべし」の心得で取り組みます。
</p>
<p>
ありがとうございます。
</p>
<p>
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝
</p>
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>「志」こそ、情熱の根源なりや</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/dt/2010/07/post_2099.php" />
   <id>tag:www.hakuoh.co.jp,2010:/presidentblog//2.2150</id>
   
   <published>2010-07-07T09:09:40Z</published>
   <updated>2010-07-07T09:10:05Z</updated>
   
   <summary> 「志」（こころざし）という字に強く惹かれます。政治家、教育者、経営者など 人の...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="2010年" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/">
      <![CDATA[<br />
「志」（こころざし）という字に強く惹かれます。政治家、教育者、経営者など<br />
人の上に立つ者は、とくにこの志を忘れてならないと私は思う。言い換えれば<br />
志の無い者は人の上に立つべきではないということになります。<br />
<br />
では、この「志」とは一体何か？今日はこのことを存分に論じたいが、まずは<br />
再確認のため、辞書を開いてみましょう。<br />
<br />
<br />
志（こころざし）とは・・・<br />
<br />
「ある方向を目ざす気持ち。心に思い決めた目的や目標。心の持ち方。信念。志操。」<br />
または、 「相手のためを思う気持ち。厚意。」<br />
<br />
と、書いてありました。志を持たない人は、何事も小手先でしか対処できないし、<br />
目先のことばかりに心が囚われてしまいます。つまり「小さい器」の人物という<br />
ことになります。そしてこの「小さい器」では、人を導くこともできないし、人物<br />
そのものの魅力を欠いてしまいます。<br />
<br />
誰でも自分が一番です。自分大事で自分可愛いと思うのが性（サガ）というもの。<br />
しかし志は、そんな自分をも客観的に捉えてしまう力を持っています。自分大事なら<br />
その自分が存在するこの場（祖国や組織）を最も生かそうと考えるし、それが自然に<br />
行動として表れるものです。だから当然に自分の犠牲を厭わない姿勢が真っ先に出ます。<br />
<br />
私はこういう人物が大好きだし、心底から惚れ込んでしまいます。また、こういう<br />
傑出した人物というのは、何も政治家、教育者、経営者だけに存在しているわけでは<br />
なく、大半は一般社会の中にいらっしゃるものです。もっといえば、今はその姿勢が<br />
注目されていないだけかもしれません。それはまるでダイヤモンドの原石のようなもの。<br />
<br />
原石は磨くことでダイヤモンドになりますが、私はこの磨くという点に注目したい。<br />
磨くとは、つまり「手塩にかけて育てる」ということ。これが必要なのです。<br />
<br />
順番としては、まず原石を「発見する（見い出す）」その次に「伝える（教える）」<br />
そうしながら伝える側（教える側）も伴に「鍛錬し合う」こと。その手順が基本に<br />
なるのだと思う。もちろん第一段階で「発見する（見い出す）」必要があるので、<br />
この時点での失敗は大きい。そう考えますと、発見するにあたっての見極める目が<br />
非常に重要になります。<br />
<br />
また、<br />
この見極める目を持つには、当人の信念も余程強くなくてはならないし、すべてに<br />
おいて覚悟が決まっていないと難しいこと。そして万が一失敗したとしても、それを<br />
すべて負うほどの「逃げない自分」を持っていないと、本物の気迫が出てこない。<br />
いわば気迫なしでは原石だって、こちらを見向きもしないでしょう。<br />
<br />
志を持つ人物は、同じく志を持つ人間に惚れ込むもの。<br />
要は、すべてが「真剣勝負」ということであります。<br />
<br />
ありがとうございます。<br />
<br />
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>二十歳の頃の私が宣言したこと</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/dt/2010/07/post_2101.php" />
   <id>tag:www.hakuoh.co.jp,2010:/presidentblog//2.2149</id>
   
   <published>2010-07-06T09:34:24Z</published>
   <updated>2010-07-07T03:41:02Z</updated>
   
   <summary>私は二十歳の成人式を迎えたとき、そのとき勤めていた会社の社内報に 成人を迎えるに...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="2010年" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/">
      <![CDATA[私は二十歳の成人式を迎えたとき、そのとき勤めていた会社の社内報に<br />
成人を迎えるにあたっての抱負を書いたことがあります。その中で私は<br />
「人生をあきらめ、まわりに流されて生きる大人にはなりたくない。」等と<br />
かなり生意気なことを書いてしまいました。<br />
<br />
幼い頃から読書が好きで、とくに偉人と言われる人たちの伝記を読むのが<br />
たまらなく大好きだった私・・そんな子ども時代の私が憧れるのは、正義で<br />
あったり、冒険であったり、何かこう人生に対するチャレンジを常にしていくと<br />
いうアグレッシブな生き方だったのです。<br />
<br />
だから「あきらめる」とか「流される」ということに強い抵抗感がありましたし、<br />
自分はそういう生き方は絶対しないぞ、と心に強く決めていたところもありました。<br />
しかし子どもの時に抱いた決意なんて、大人になるにつれて段々と薄れていくも<br />
のだなぁ、と気づくのにそう時間はかからなかった。<br />
<br />
油断していると、「あきらめる」「流される」という状態に慣れてしまうようで<br />
一度その状態に入り込んでしまうと、なかなか脱出は難しいもの。そのかわり<br />
夢を失い、挑戦する気力さえも奪われてしまいます。私たち人間にとって、何が<br />
一番尊いかというと、やはり「生きること」だと思うんです。しかもそれは肉体<br />
が呼吸している、脈を打っている、血が流れているということに甘んじるのでは<br />
なく、魂（たましい）が脈動しているものでなければいけません。<br />
<br />
私は若い頃、とにかく希望しかなかった。大人になったら余計な制限も<br />
取っ払われて「自由」になるんだ、と素直に信じていたのです。もちろんコネも<br />
お金もありませんでしたけど、可能性というのは誰にでも等しく在るものだと<br />
本気で思っていたし、そこにチャレンジするのに差別はない、と信じていました。<br />
だからこそあんな台詞が言えたんだと思います。<br />
<br />
「人生をあきらめ、まわりに流されて生きる大人にはなりたくない。」と・・<br />
<br />
若気の至り？<br />
世間を知らなすぎ？<br />
<br />
等々、思ったこともありましたが、今の私は声を大にして言いたい。<br />
<br />
二十歳のときに思ったことは決して嘘ではないよ、と。<br />
<br />
そういう気持ちを継続させ、成長させていくことが肝要だったんだよ、と。<br />
<br />
何故に、いつの間にやら「あきらめ」「流されて」いくのか。そのほうが余程<br />
ヘンなんじゃないか、と私は思うのです。<br />
そして気づいたときにこそ、原点回帰のチャンスです。あるいは初心に戻る<br />
チャンスといっても過言ではありません。<br />
<br />
夢の形は変わるかもしれないが、それを実行する人の魂は何も変わらず、ただ熱く、<br />
一生懸命に、ひたむきに、真剣に汗を流す。そういう「生きる」という姿勢こそ<br />
私たち人間の尊さであり、存在意義であると私は信じるのです。<br />
<br />
ありがとうございます。<br />
<br />
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>過去に囚われない生き方</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/dt/2010/07/post_2100.php" />
   <id>tag:www.hakuoh.co.jp,2010:/presidentblog//2.2148</id>
   
   <published>2010-07-04T23:24:31Z</published>
   <updated>2010-07-07T03:41:17Z</updated>
   
   <summary> 「過去」というのは、二度と戻らない時間のことである。たとえば、あのとき こうし...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
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         <category term="2010年" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/">
      <![CDATA[<br />
「過去」というのは、二度と戻らない時間のことである。たとえば、あのとき<br />
こうしておけばよかった、ああしておけばよかった等と悔いても、その巻き戻しは<br />
叶わない。過去は既に過ぎ去った時間であり、同じ繰り返しはタイムマシンが<br />
世に出ない限りあり得ない。<br />
<br />
つまり「過去」とは、苦い思い出にせよ、良き思い出にせよ、既に済んだもの。<br />
そこに囚われる生き方は、今この瞬間を、あるいはこれから来たる未来を認められ<br />
ないということになってしまう。これは正直苦しいことだと思う。<br />
<br />
私たちにとって、どんな理由があろうとも「過去」に希望は懸けられない。やはり<br />
今この瞬間と、これより来たる未来にしか希望は懸けられないのである。もちろん、<br />
こんなことは百も承知であろう。しかし何故か私たちは「過去」に囚われ、今日も<br />
明日も思い煩うことが多い。<br />
<br />
これほど無駄な時間の浪費はない。無駄どころか、この貴重な人生に対して無益で<br />
無茶で無作法である。私たちは「過去」をどうすべきか。どう捉えるべきか？<br />
私思うに「過去」は学びである。悔いも、笑いも、様々な思いも多々あろうとも<br />
それを「どうにかしよう」とするのではなく、そこから学ぶことを大事と考える。<br />
<br />
それに学びは建設的である。学ぶ姿勢に消極性なんてない。学ぶことは得ることだし、<br />
昨日より今日、一歩も二歩も前進することなのである。たとえば「歴史に学ぶ」と<br />
いうこともあるわけで、学びの材料としては十分すぎるほどの蓄えが過去には、ある。<br />
<br />
私たちは「過去」に囚われている限りは、今も未来も存在する意味を持たないが、<br />
その代わり「過去」を学びと捉えたとき、その積極的な姿勢は必ず今や未来に役立つと<br />
私は信じている。「経験に勝る教科書はない」のと同じことだ。<br />
<br />
経営者にとって「過去」は栄光と挫折とが複雑に入り交じったものだと思う。その<br />
「過去」に囚われることだって正直あるわけで、そういうときはものすごく孤独だ。<br />
やろうとすることが理解されなかったり、場合によっては頓挫したり、そのたびに<br />
心は深く深く傷つくし、「しっかりしろ！お前が立たなくてどうするんだ！」と自身に<br />
叱咤激励しても、どこか虚しい声のように思えたりして、そんな脆い精神状態のとき<br />
だってある。<br />
<br />
しかし、その叱咤激励の声は間違っていない。その声の言うように、<br />
「しっかりしろ！お前が立たなくてどうするんだ！」が原理原則に沿って正解である。<br />
ともかく「過去」に囚われていると、心身ともに病む。底知れない栄光と挫折が何度も<br />
脳裏に繰り返され、窒息してしまうからである。負けないようにと踏ん張っても、<br />
ダウンするときゃするわけで。<br />
<br />
だからこそ今一度冷静に、「過去」を見る。二度と戻らない時間であることを再度<br />
認識したうえで、それを学びに代える訓練を行う。これこそ自主的で厳しい修行では<br />
あるが、それをやらないと何も得られないのも事実である。<br />
<br />
過去に囚われない生き方とは、つまり、自分から気づくことが第一歩なのである。<br />
<br />
「求めなさい　そうすれば与えられる。」（聖書）<br />
<br />
ありがとうございます。<br />
<br />
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝
]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>「必死」が教えてくれたこと</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/dt/2010/07/post_2098.php" />
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   <published>2010-07-02T10:11:17Z</published>
   <updated>2010-07-02T10:11:53Z</updated>
   
   <summary>「必死」（ひっし）という言葉があります。 これを辞書で調べると・・・ 「必ず死ぬ...</summary>
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      <![CDATA[「必死」（ひっし）という言葉があります。<br />
これを辞書で調べると・・・<br />
<br />
「必ず死ぬこと。」<br />
「死ぬ覚悟で全力を尽くすこと。また、そのさま。死にものぐるい。」<br />
<br />
と書いてありました。その他にも「命懸け」「熱心」とも解されています。<br />
これだけ重たい言葉でもあるに関わらず「必死」というのは、日常会話でも<br />
よく出てきます。何となく使っているのでしょうが、言葉の持つ意味は大きい。<br />
<br />
しかし別の考え方で言えば、「人生そのものは必死であるべき」が前提かもしれ<br />
ないな、と私は思いました。必死に生きるからこそ、何事も正々堂々と出来るし、<br />
コソコソすることもないし、人目が気になって怯えることもない。今この場、<br />
この時にお天道様に向かって全身を預けつつ、一生懸命生きることは本当に<br />
凄いことなのです。それが生きることの筋であることは誰でも承知しているし、<br />
そう生きることに憧れるが、実際は出来ないことが多い。<br />
<br />
なぜか？<br />
その答えも実に明確です。<br />
要は、「覚悟が決まらないから」その１つにすべての要因が集約されています。<br />
いろんな言い訳、理屈付けは多々出るでしょうが、それらを突き詰めたら、もう<br />
この「覚悟」に行き着くほか、とる道はありません。<br />
<br />
目の前に起こる出来事が、困難であろうと、喜ばしい朗報であろうと、すべては<br />
時の流れと同じように移ろいやすいものです。それならば、それらを引っくるめて<br />
人生のすべてに対して本気でぶつかったほうがいい。<br />
<br />
困難も朗報も、まるで順番待ちでもしているかのように必ずやって来るのです。<br />
逃げれば、「逃げた」という経緯のうえでの結果が産み出されますし、堂々と<br />
立ち向かえば、その工夫や奮闘が経緯となり、そのうえでの結果が産まれる。<br />
言い換えれば、「たったそれだけのこと」なのです。私たちは人生において<br />
結果を求めたがります。それをやった結果はどうなるのか？努力すればどのように<br />
報われるのか？何よりもとにかくその結果を知りたがる。<br />
<br />
しかしながら結果は結果であって、それだからといってずっとこの先がその結果に<br />
保証されるということもありません。所詮、結果も「この場・この時」の現象で<br />
あるということです。それよりも重要なのは、経緯です。自らの足で歩んだ軌跡と<br />
いうのでしょうか、そこでの経験が一番肝なのです。<br />
<br />
結果というのは、それに対して執着しなければよいのですが、囚われたときが<br />
最も怖い。それと私たち人間は、眼前に起こってしまったことに対して重く<br />
受け止めてしまう傾向があり、それを明日へのバネに出来る人はよしとしても<br />
大半は後悔とか、トラウマとか、あるいは呪縛にしてしまいます。<br />
<br />
人生は常に「必死」（ひっし）なのです。私たちはいずれ必ず死を迎えます。<br />
それが自然のことですし、避けようにも避けられるものでもありません。<br />
それであれば、どう生きたか？という経緯、経験に重きを置きたいし、美学と<br />
言われようとも、そこにこだわりを持ちたい。<br />
<br />
「必死」（ひっし）。<br />
本当に深い深い言葉、究極の学びですね。<br />
<br />
ありがとうございます。<br />
<br />
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝<br />
]]>
      
   </content>
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<entry>
   <title>　私の心得「いつでも理念を刻む」</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/dt/2010/06/post_2097.php" />
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   <published>2010-06-30T10:18:41Z</published>
   <updated>2010-06-30T10:19:14Z</updated>
   
   <summary>若き情熱と夢をもって立ち上げた会社も、本日で１６歳の誕生日を迎えました。 平成７...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.hakuoh.co.jp/presidentblog/">
      <![CDATA[若き情熱と夢をもって立ち上げた会社も、本日で１６歳の誕生日を迎えました。<br />
平成７年の今日、私は大きな期待と希望を抱き、名古屋法務局の門をくぐり、<br />
株式会社設立の登記申請書を提出してまいりました。当時は手書きでも通用<br />
したので、どうせならと一字一句に心を込め、筆を入れて出したことを今でも<br />
よく憶えています。あれから十数年と年月が経ち今日に至りますが、やはり<br />
スタートの時というのは鮮明に記憶に残るものですね。<br />
<br />
この設立記念日によせて私は経営の根幹となる「理念」について取り上げたい。<br />
コラム「社長塾！」を２００４年２月中旬あたりから書いておりますが、その中で<br />
「理念」について触れたことは結構多くて、いかに私自身が「理念」を課題として<br />
いるか、強く意識しているか、ということがわかるのではないかと思います。<br />
<br />
私にとって「理念」とは、原点回帰を意味します。日々の活動に忙殺されそうに<br />
なろうとも、決して「理念」だけは忘れない。「理念」なくば経営成り立たず。<br />
会社も存在する意味を持たず。と、そこまで究極のものとして捉えているのです。<br />
<br />
しかしながら実際に「理念」を実行するとなると、これが結構厳しいイバラの道。<br />
日常の中で「理念」を実践するというのは、一歩間違うと単なる、<br />
「頭ではわかっている」状態になってしまいます。これが非常に厄介なこと。<br />
<br />
頭ではなくて魂（たましい）で理解すべきものが「理念」です。つまり、自分の<br />
身すべてにおいて理解されていることが肝要なのです。別の言い方をすると<br />
全身全霊というのがピタリと当てはまるでしょう。<br />
<br />
私もこうして「理念」について書いてますが、この瞬間というのは神経が研ぎ<br />
澄まされ、かつ自身への確認作業、反復を行っているのと同じですから「理念」が<br />
おもしろいように腹に落ちていきます。ところがここを一歩出て、いつもの<br />
日常生活に身を投じると「理念」は少し遠くに行ってしまう。それほど人の心と<br />
いうものは弱く、もろく、移ろいやすいものなのかもしれません。<br />
<br />
確認作業、反復は、あながち無駄ではないでしょう。日頃から「理念」を<br />
復唱し、あるいは自ら筆を執ってその一字一句を書き上げることも良い効果に<br />
繋がるものだと私は思います。要は「いつでも理念を刻む」ことが大事なので<br />
あって、それをコツコツと達成できる人が最後に笑う。そういうものなのだと<br />
最近とくに感じるようになりました。<br />
<br />
忘れること。<br />
逃げること。<br />
諦めること。<br />
<br />
それは「いつだって、できること」なのです。そういうことに甘んじることなく<br />
確実に成長していく道を選んで正々堂々と生きていきたい。そうでなければ<br />
人生はずっと後悔だけを刻み、その苦悩から解放されることもないはずです。<br />
そんな寂しすぎる人生を送りたくて「今」があるわけじゃないし・・<br />
<br />
「いつでも理念を刻む」をこれからも精一杯、体現していきたい。<br />
<br />
ありがとうございます。<br />
<br />
<br />
感謝合掌。<br />
遠藤　潤　拝
]]>
      
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